
続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料
旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。
宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去