2009年4月29日水曜日

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

株主様限定特製ビール


子供の学資捻出で大半を売却。かろうじて株主優待が頂ける位にしか保有はありませんが「とりあえず」アサヒビールのステークスホルダーです。今年も優待ビールが届きました。今年のテーマは「初号アサヒビール復刻版」です。明治25年(1892年)発売当時のビールの味を現存している分析書を元に現在の材料・設備・技術で再現されたそうです。今では懐かしい朝日麦酒の旭日旗マークが缶にデザインされています。但し、明治創業時は熱処理でしたが、このビールは非熱処理(いわゆる生ビール)です。原材料は麦芽100%とドイツ産ホップのみ。早速いただきましたがヨーロッパ処方にありがちな重たいビールでなく麦芽の重厚な味わいと華やかなホップの香りが特徴的でした。現在の市場性にも叶うテイストと思います。明治政府が出来て20数年という短期間に日本でビールが製造されるほど発展した経済・文化・社会構造。当時の歴史は目まぐるしい変化で動いたことでしょう。明治時代に生きた人々はビールをどんな風に楽しんだのかとても興味があります。
2005年から保存している過去の優待ビールコレクション

2009年4月27日月曜日

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

恐るべし旭化成 イヒッ!その3


研修中、何が辛かったかと言えば自身の生活習慣でした。朝、太陽が昇り日暮れとともに眠るという習慣がない者にとって製造現場は過酷でした。ニコチンやアルコールが体内から抜けてその毒が依存症になっているのでした。それと妙な自負心はことごとく打ち破られ精神的にも肉体的にも極限を迎えました。講師の現場担当者は仕事を終えてから私の寮に訪ねてはそれこそ箸の上げ下ろしからすべてを教育してくれました。「自分があなたの会社ならこうする!」と自信たっぷりに社員のなすべきビジョンを語ってくれました。心機一転、通勤をランニングに切り替えて体力作りからはじめました。5時起床、工場までの10キロあまりの距離を1時間半くらいかけて走っては歩き、歩いては走り。着いたら事務所と現場の清掃を始めました。意識を根底から変えると水を得た魚のように自分らしさが発揮できたのは驚きでした。今はバイク(ロードーレーサーという自転車)を体力づくりの基礎にしていますが50歳過ぎまでランニング・マラソンは旭化成陸上部仕込みで続けられたことが私の財産となりました。研修3ヶ月の間で体重が当時75キロオーバーでしたが終了間際には67キロの健康体を取り戻していました。研修の成果は体力だけでなくプロとしての仕事人の気構えや自己研鑽の必要性を徹底的に叩き込まれました。研修後、請われて高知の紙製品製造会社に転職をしましたがここで得た知恵はその後大いに役立ちました。出来ない理由を探すのではなく出来る方法を模索する姿勢を教えてくれたこの研修は私の人生の起点です。

2009年4月24日金曜日

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

恐るべし旭化成 イヒッ! その2


続きの前に、旭化成の詳細をお伝えします。
旭化成延岡展示センター・ベンベルグ工場見学
旭化成発祥の地、延岡にある展示センターは、旭化成の歴史や事業活動、延岡・日向地区における地域社会の住民さんとの関係について、パネルや模型・製品の展 示、企業紹介ビデオなどにより総合的に紹介されています。また日本で唯一のキュプラ繊維の生産工場であり、コットンリンターを主原料として「ベンベルグTM」糸(衣料用)や人工腎臓用の中空糸を製造する、ベンベルグ工場見学のご案内も行っています。併設するサイエンス工房では、ペットボトルから繊維を再生するなどの実験を通して、科学の面白さを体験できます。
宮崎県延岡市旭町6丁目4100番地 ☏0982-22-2070 
http://www.korejaga.com/asahikasei/
所要時間:延岡展示センター40分・ベンベルグ工場見学60分
コースの有無:ガイドツアー有(工場見学)
見学時間:9:00~12:00、13:00~16:00休館日:土曜、日曜、祝祭日、年末年始
入場料:無料

旭化成詳細 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創業者の野口遵が1906年に鹿児島県伊佐市(いわゆる曽木の滝)に「曽木電気」を起こしたことに始まり、「曽木電気」の水力発電の余剰電力を利用して1907年に熊本県水俣市にある「日本カーバイド」を設立。後に合併して、「日本窒素肥料」(現・チッソ(発祥は水俣))となる。やがて1922年に宮崎県延岡市でカザレー式アンモニア合成工場と滋賀県に設立した再生繊維レーヨン製造会社である旭絹織株式会社を設立し、合成アンモニアの製造を開始する。その後1923年に日本窒素肥料と旭絹織と合併(「日本窒素肥料・延岡工場」。旭化成としての発祥の地は延岡となる)するがその後分離独立する。同社は旧財閥「日窒コンツェルン」の一員であった。野口が延岡で世界初のカザレー式アンモニアの合成化に成功したのを機に始まり、昭和に入ってアンモニアを使用した繊維「ベンベルグ」(一般名「キュプラ」)を発売して、その後、数々の合成繊維(「レオナ」、「カシミロン」(アクリル繊維)、「ナイロン」、「レーヨン」)、化学調味料(グルタミン酸ソーダの「旭味」「ミタス」)、化学薬品(カセイソーダ(イオン角膜法で製造。旭化成独自の製法)、塩素、塩酸、硫酸、硝酸)等の製造をしていたが、戦後に事業を多角化して、家庭用品で1960年に発売した「サランラップ」(当初は旭化成とアメリカ・ダウ・ケミカルとの合弁会社「旭ダウ」からの発売)の爆発的大ヒットで旭化成の名を一躍全国区に、さらに「サランラップ」を押し進めた形で、冷凍、冷蔵、過熱、解凍が可能な食品保存密封袋「ジップロック」の販売権をライオンから譲受し、主力商品とした。現在は上記のほかに医薬品(一時は一般用医薬品(旧東洋醸造から引き継がれた)の抗アレルギー剤(じんましん薬、鼻炎薬)「サットル」、風邪薬「サットル総合感冒薬」も展開していたが、現在は全て医療用医薬品のみ)や繊維加工技術から発展した弱電部品の製造、そして耐火性・耐候性を前面に打ち出した新建材「ヘーベルパワーボード」やそれを使用した「へーベルハウス」ブランドの住宅の販売も行っている。社名の由来は滋賀県琵琶湖湖畔に建設されたレーヨン工場の敷地内にあった寺に由来する。祭られている源平合戦の英雄・木曽義仲、別名・旭将軍からである。一方の「化成」はワンマンであった野口が逝去し、戦後に付けられたが、こちらの経緯は社内でも明確にはわかっていない。フジテレビ系列にて長年に渡り、「スター千一夜」や「なるほど!ザ・ワールド」、「メトロポリタンジャーニー」など一連の番組の単独スポンサーを、1959年から1997年の放送終了まで一貫して、旭化成と旭化成グループ各社として、のべ40年間近く行っていたことでも知られる。2003年に、酒類・食品など非中核事業を売却した上で、持株会社に移行し、各事業の運営は子会社へ移った。同時に企業CIもこれまでの漢字からアルファベットに変更された。第一勧銀グループの一員でもある。

宮崎 輝 詳細
〔1909年~1992年(明治42年~平成4年)・旭化成株式会社元社長、会長〕
長崎県に生まれる。東京帝国大学法学部英法科を卒業し、1934年(昭和9年)に旭ベンベルグ絹糸 株式会社(旭化成の前身)に入社。1947年(昭和22年)には37歳の若さで取締役に就任、その2カ月後には労務担当の常務に昇格し、1948年(昭和 23年)に起きた大労働争議を収拾し、業界内で労務問題第1人者の評価を得る。1958年(昭和33年)には専務に昇格。1961年(昭和36年)にアク リル繊維カシミロンの不振で経営が行き詰まった責任をとって辞任した社長に代わって、末席の専務であった宮崎氏が再建を担う社長として就任し、経営の立て 直しに尽力、4~5年で旭化成を1兆円企業に押し上げた。1985年(昭和60年)には24年間務めた社長の座を降り会長に退いた。生前「なお良くするための手だてを、ひたすら考えねばならない。」と言っていた彼は「経営の鬼」、「気骨の経営者」と呼ばれ称えられている。
年表
• 1909(明治42)年4月19日
長崎県南高来郡山田村(現・吾妻町)に宮崎松之助、スエの二男として生まれる
• 1934(昭和9)年3月
24歳 東京帝国大学(後に東京大学)法学部 卒業、日本窒素肥料(後にチッソ、旭化成) 入社、子会社の旭ベンベルグ絹絲(後に旭化成) 配属
• 1945(昭和20)年6月
36歳 徴兵により兵役生活 (~約2週間)
• 1947(昭和22)年3月
37歳 旭化成工業 取締役就任
• 1947(昭和22)年5月
38歳 旭化成工業 常務就任、労働争議収拾にあたる
• 1958(昭和33)年4月
48-49歳 旭化成工業 専務就任
• 1961(昭和36)年7月
52歳 旭化成工業 社長就任
• 1985(昭和60)年
75-76歳 旭化成工業 社長退任、会長就任
• 1992(平成4)年4月17日
82歳 逝去

2009年4月23日木曜日

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

恐るべし旭化成 イヒッ! その1

私がよく口にする「ないもの、あります」を地で行く会社があります。私が30歳前の頃。突如、旭化成へ研修生として送り込まれた話です。ちょうどその頃アサヒビールの業績は完全に右肩下がりで最悪でした。
アサヒビールの大株主でもある宮崎輝会長(故人 当時は社長職)旭化成が将来アサヒビールの幹部社員・役員になる人材を選抜して各グループに出向させた経緯があります。彼ら(私より一回り以上歳の離れた課長級の人が多かったように思います。)と一緒に、研修は延岡工場へ。

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く

2009年4月22日水曜日

聞かせてよ愛の言葉を

最近一寸はまっているのが、シャンソンの「聞かせてよ愛の言葉を」です。私にとってのシャンソンは、おフランスの演歌ぐらいにしか存在感がありませんでした。これだけはすごい衝撃を受けました。以前、連続テレビNHKのちりとてちんの挿入歌が「聞かせてよ愛の言葉を」でシャンソンにしては違った歌い方と歌唱力に魅了されました。東京出張の折に友人たちはシャンソンライブが聴けるレストランへ招待してくれました。高らかに歌い上げる佐々木秀美さんがステージにいました。佐々木秀美さんって男性だと聞かされてびっくりしました。美輪明宏なら判る気がするのですが声はやはり女性にしか思えません。服装からもあきらかに女性にしか見えないし、声の質も女性歌手そのものにしか聴こえませんでした。こういった存在は異性装というのだそうです。最近、外国で教会のボランティアをしている一見して普通の一般市民的な女性がすごい歌唱力を披露して全世界でユーチューブのアクセス数が話題になりましたが、それ以上のダイナミックな声量と、視聴者を彼の歌の世界に引きずり込んでしまう実力を持っていると感銘しました。年齢も聞いて驚き1980年生まれだそうです。この人、人生のなんたるやを語りとして詠う表現力に拍手喝采です。下記のURLで視聴できます。
http://mysound.jp/music/detail/tWIJO/">佐々木秀美

聞かせてよ愛の言葉を

最近一寸はまっているのが、シャンソンの「聞かせてよ愛の言葉を」です。私にとってのシャンソンは、おフランスの演歌ぐらいにしか存在感がありませんでした。これだけはすごい衝撃を受けました。以前、連続テレビNHKのちりとてちんの挿入歌が「聞かせてよ愛の言葉を」でシャンソンにしては違った歌い方と歌唱力に魅了されました。東京出張の折に友人たちはシャンソンライブが聴けるレストランへ招待してくれました。高らかに歌い上げる佐々木秀美さんがステージにいました。佐々木秀美さんって男性だと聞かされてびっくりしました。美輪明宏なら判る気がするのですが声はやはり女性にしか思えません。服装からもあきらかに女性にしか見えないし、声の質も女性歌手そのものにしか聴こえませんでした。こういった存在は異性装というのだそうです。最近、外国で教会のボランティアをしている一見して普通の一般市民的な女性がすごい歌唱力を披露して全世界でユーチューブのアクセス数が話題になりましたが、それ以上のダイナミックな声量と、視聴者を彼の歌の世界に引きずり込んでしまう実力を持っていると感銘しました。年齢も聞いて驚き1980年生まれだそうです。この人、人生のなんたるやを語りとして詠う表現力に拍手喝采です。下記のURLで視聴できます。
http://mysound.jp/music/detail/tWIJO/">佐々木秀美