

舞台の延岡工場は洋服の裏地に汎用される「キュプラ」のベンベルグ工場の裏手にある「ベンリーゼ」という不織布の製造所でありました。今でこそ不織布はおむつから高機能マスクなど家庭日用品や医療・各種製造現場で多用される産業資材ですが当時は夢物語みたいな仮想マーケットで1,000億円以上を語られるだけで流通は困難を極めていました。宮崎 輝(かがやき)氏1909(明治42)年4月19日~1992(平成4)年4月17日 長崎県出身 東京帝国大学(後に東京大学)法学部卒業旭化成社長・会長を歴任。「健全な赤字部門」を育成し、多角事業で経営不振の旭化成の再興に尽力した中興の祖、「経営の鬼」・「気骨の経営者」と称されています。この事業の原料はタダ!なのですが、元々「キュプラ」に使われた真綿以外の茎、葉っぱ(コットンリンターいうならば綿クズ)が原材料です。にんにくを食された方はご存知でしょうが、にんにくの茎や葉っぱを食べても独特のニンニク臭があります。綿くずを薬品でどろどろに溶かして高圧ノズルで引っ張り出すと綿布と同じ性質になります。縦糸と横糸を使って繊維にするのとはちがう不織布ですが衣類には不向きですがガーゼなどに利用すると木綿のガーゼより廉価で衛生的です。当時のお金で10億規模の設備投資だったと聞いています。化成品会社の使命感だけで、ただのごみとしか思えないものを化成する「健全な赤字部門」の代表事業所の常識に驚嘆され続けました。
研修一日目 事業所に午前8時に出社するようにいわれ7時半に工場正門前へ行ったところ守衛さんから「今日は帰りなさい!」と言われてしまいました。正門から事業所まで徒歩で30分はかかります。「当社では時間30分前以上に製造機械の稼動が出来ているのが社員の務めとなっています。」「今日は列車の遅延ということで処理をしておきますから・・・」一同が唖然として寮に戻ったことがあります。翌朝は従業員があっちこっちからランニングで通勤するのも驚きでした。二日目の叱正は朝一番の朝礼からありました。誰かが筆記具とメモを忘れボールペンの拝借を担当者にお願いしたのですがきつい怒号を浴びせられました。「この事業所に何人の従業員がいると思っている!」「二千人規模の従業員に¥100の筆記具を支給して一年の経費はいくらになると思っている!」事務所の周りを見渡すと責任者・事務方以外の机には引き出しもなくいわゆるセールスマンデスクで6人一組のユニットでした。必要な文具は大きな作業テーブルに手作りの収納スペースに綺麗に配置されていました。製品を作るうえで無駄と思えるコストを掛けないというのが徹底されていたのです。「ボールペンの1本くらい家にあるだろう!」使用済みのコピー用紙は鉛筆書きでボロボロになるまで使われました。共有する仕事を学びました。研修生の日常として喫煙とお付き合いの飲酒漬けの日々を暮らしていたのでニコチン中毒症状や昼からの倦怠感は相当ストレスが溜まりました。仕事が終わって工場を出て、禁煙区域外(工場の隣は日露戦争で活躍した伊集院信管で名を馳せた日本カーリットというダイナマイト工場がありました)について3~4本口に付けれるだけの煙草をくわえて一度に一箱吸ったことも度々でした。なにか身体から毒が出て行くのを自ら拒んでいるようでした。次回に続く
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